賢さん通信9号
沖縄に戻るきっかけを与えてくれた天国の母
こんにちは!株式会社琉球補聴器、代表取締役の森山賢(けん)です。賢さん通信第9号をお送りいたします。どうぞよろしくお願いいたします。
さて、前回は、関東リオン(リオネットセンター所沢)にて田中店長と働いていたことを書かせていただきましたが、今回は、骨を埋めるつもりで働いていたその会社を辞め、沖縄に戻るきっかけとなった、亡き母のことについてです。
実は、母は、国で難病指定されている筋ジストロフィーでした。時間の経過とともに筋力が衰えていく原因不明の病気です。私が中学生の頃、母にその症状が出始め、転びやすくなったり、階段をすごくきつそうにしていたことを記憶しています。
父との関係が悪かった私は、大学進学とともに東京に出てしまい、しばらく、母と会えない状態が続いていました。学生時代は年末年始と帰って来ることができましたが、前々号で書きました最初に入社した会社がブラック企業。そこでは休みがほとんど取れず、毎日、朝早くから夜中まで働き、電話さえできません。ただ、母からはときどき手紙は来ていました。その手紙に見る母の字も、だんだん弱々しくなっていき、しかし、忙殺されていた私は、その字に心を寄せる余裕すらありませんでした。
1社目を辞め、補聴器会社に転職するまで2カ月ほど時間があったので、私はいったん実家に帰りました。久しぶりに見る母の姿に、ずいぶん痩せたなぁと思いました。母は当時まだ50代半ば。しかし、できることが少なくなり、そのときはもうヘルパーさんを頼んでいました。私がいる間は、私が代わりに介助をしていたのですが、お箸を持つのもおぼつかずスプーンで食べ、また、お手洗いに行くにも一人では無理なので、私が抱えるように介助していました。
2カ月が経ち、前号で書きました補聴器会社に入社。いっしょに働く人たちにも恵まれ、水を得た魚のようにバリバリと働いていたのですが、3年ちょっと経ったとき、突然、父から電話が掛かってきました。「母さんが危篤状態に入った。帰って来れないか?」と。私は、当時働いていたお店の田中店長に事情を話し、急いで沖縄に帰ることにしました。ところが、そういうときに限って飛行機は遅れます。沖縄に帰ってきた時には、母はもうすでに、旅立ってしまっていました。
当時、私はまだ30歳。まさか自分が30歳で母と別れることになるとは、想像もしていなかったので、ショックが大きく、ただただ悲しく、ずっとうなだれたまま、初七日を迎えました。私は四十九日までずっと沖縄にいたい気持ちがあったのですが、ただ、働かなければ生活もしていけない。ふと、母だったら何て言うだろう?と思い、そこで「いつまでもめそめそしないで、早く東京に戻って働きなさい!」ってきっと叱るだろなぁと想像でき、再び東京で仕事を頑張る日々が始まりました。
ところが、働きながらもずっと後悔の念がありました。母親に対して全く親孝行ができなかった…と。そして、そこから1年が経った頃、またふと思いました。亡くなった後でもできる親孝行って何かないかなぁ?と。そして、思いついたのが、生前、母が大切にしていた物、事、人を私が大切にしようと。そうすれば、天国の母が喜ぶだろなぁと。じゃあ、母が大切にしていたのは何だろう?と思いを巡らせ、最初に思い浮かんだのが、ずっと私との関係が悪かった父の顔だったのです…。
東京の補聴器会社、関東リオンに骨を埋めるつもりでいた私は、非常に困ったのですが、関東リオンの当時の社長に相談したところ、「森山君の中で答えは出ているんじゃないの?」とおっしゃっていただけて、私はその言葉に救われ、そして、退職。沖縄に戻るという決断をしました。
今も思います。母のおかげで私の人生があります。今、私はとっても幸せな人生を歩むことができています。全て母のおかげです。これからも、天国から見守ってくれている母に恥じない生き方をしていきます。