賢さん通信7号
初めて就職した会社は、受話器をテープでぐるぐる巻きに・・・
こんにちは!株式会社琉球補聴器、代表取締役の森山賢(けん)です。賢さん通信第7号をお送りいたします。どうぞよろしくお願いいたします。
さて、前回まで、海外一人旅3回シリーズをお届けいたしましたが、今回は、私が大学を卒業して初めて就職した会社についてです。社名は伏せさせていただきますが、なかなかの経験をさせていただきました。
就職は東京ですると決めていました。当時、父との関係がまだ良くなかったので、沖縄には帰らず、そのまま東京で就職活動をしました。食品メーカーやラジオ局など様々な業界を受け、そして、いくつか内定をもらった中から1社、教育関係の会社に、そこの会社の社長に惹かれ、入社しました。
その会社はもうなくなってしまったのですが、教育業界に革命を起こす!というくらい熱い社長で、職場はなんと、新宿西口高層ビル群のひとつ、新宿NSビルの25階。そして、今では絶対にアウト!だと思いますが、新入社員は左手に受話器をガムテープでぐるぐる巻きにし、ひたすら電話営業をしていました。
電話の相手は大学生。当時、ダブルスクールという言葉が流行りました。大学に通いながら、もうひとつ別の学校に通うというもの。そこでは、当時、まだ出始めの、パソコンの資格を取得できたり、英語を学べる場所を提供していました。私たちは、1日300件と電話をして、ほとんど聞いてもらえないのですが、中には話を聞いてくれる学生もいて、そして、「ちょうどパソコンを習いたいと思っていたんです!ありがとうございます!」と言われながら、会社に来ていただき、そこで学校の説明をして、けっして安くはない金額ですが、契約してもらい、その後の学生のフォローも自ら行うという仕事でした。ちなみに、完全歩合制です。
当時、私が入社した頃は、こういった電話営業は一般的で、今とは比べものにならないくらい、受け入れてもらいやすかったのですが、すぐに時代の流れが変わってしまいました。
個人情報保護法です。世の中の風向きが変わったと言いますか、電話営業への風当たりがものすごくきつくなり、これまでと同じ事をやっているにも関わらず、罵倒されたり、クレームになったり、自分の仕事に自信が持てなくなっていきました。
新卒の同期は60人いましたが、気がつけば4人に、その後、2人になっていました。給料は、生活できるかギリギリの状態です。家賃3万5千円の風呂なし&共同トイレのアパート暮らしだったのですが、私の中に「辞める」という選択肢はありませんでした。せっかく私を信用して来てくれた学生さんたちを、ここで辞めたら裏切ることになるという気持ちが強くあったからです。しかし、風当たりはきつく、悩みました。
そして、入社5年目のとき、たまたま里帰りする機会がありました。当然、父には相談できないのですが、父がある方を紹介してくれました。その方は、沖縄教育出版さんの創業者である川畑保夫さん。当時の社長です。私は、川畑さんと2人でおでん屋さんに行き、そこで、抱えている悩みを全て打ち明けました。
すると、川畑さんは、温かく包み込むように、私の全てを肯定してくれたのです。「賢さんは、よく頑張ってる。あなたが仕事を辞めるということは、決して、人を裏切るということばかりではないよ。あなたの素直さ、人を思う気持ちがとっても素晴らしいと思う。辞めるか辞めないかの判断は、もっと自分の心に正直になっていいと思う」と、そこまで言ってくださったのです。
私は、肩の荷を自らやっと下ろすことができ、そして、5年勤めた会社を退職することができました。川畑さんには今でも本当に感謝しています。
また、その会社は、今思えば完全なブラック企業でしたが、それでも、営業という面を中心に、たくさんのことを学ばせていただきました。その会社にも、とても感謝しています(笑)。