賢さん通信13号

父の大きさを感じる日々・・・

こんにちは!株式会社琉球補聴器、代表取締役の森山賢(けん)です。賢さん通信第13号をお送りいたします。どうぞよろしくお願いいたします。

さて、気がつけば、この賢さん通信も発行からちょうど丸一年が経ちました。いつもお読みいただきまして、どうもありがとうございます。最近では、この賢さん通信をわざわざもらいにご来店してくださる方がいらっしゃったり、はたまた、お手紙をくださる方がいらっしゃったり、私自身、とっても嬉しく思っております。本当にどうもありがとうございます。本年も引き続き、どうぞよろしくお願い申し上げます。

今回は、あらためて、私の父のことについて書きたいと思います。この賢さん通信の読者の皆様は、もしかしたら、私の父がとっても厳しく、ワンマンで、トップダウンな経営をしていたと、また、家庭を顧みない父親だという印象をお持ちかもしれません。もし、そういった印象をお持ちであれば、実はそうではないですよということをお伝えしたく、今回、あらためて、父のことを書かせていただきます。

私の父は、企業戦士でした。私が子どもの頃の運動会や学芸会に来てくれた記憶はないのですが、ただ、今思うと、それは家庭をないがしろにしていたというより、お客様に対して120%、心を寄せていたのだと思います。

結果として、父とのふれあいが少なくなってしまったのですが、そんな中でも、ときどき、私が幼い頃、父が動物園に連れて行ってくれたり、また、そのときに肩車をしてくれたことも、すごく大事に覚えています。また、私には弟がいるのですが、弟といっしょに、カート(100円を入れて走る車)に乗って遊んだりも、温かい思い出として残っています。それから、父は海が好きでしたので、家族皆を連れて海に行き、父は水産高校の出身で泳ぎが得意なので、遠くまで泳いで行き、魚や貝を袋いっぱいに詰めて戻ってきて、その日の夜は、それが食卓に並ぶといったこともよく覚えています。

そういった時代もあり、ただ、それは琉球補聴器という会社の創業前、私が幼稚園か小学生のときの話で、会社を創業してからは、父も、なかなかそういった家族との時間を作れなくなってしまいました。

ここからが本当に大変だったのだと思います。創業したばかりの会社のこともありますし、また、私が東京に出て、母が体調を崩したときは、父が母の看病をしたり、身の回りの世話をしたり、とにかく大変だったと思いますが、親の心子知らずで、私が父に思いを馳せることは、ほとんどありませんでした。

父は、その苦労している姿を私には見せないので、余計にわからなかったのですが、本当に大変な時期だったと思います。しばらくして、母が亡くなってしまうわけですが、その後は、出張で東京に来るときに、年に何回かのことですが、そのときは私に声を掛けてくれて、いっしょにご飯を食べに行ったりもしていました。

それから、手紙もよくくれる父でした。葉書一枚のときもあれば、便箋二枚のときもあってと、そのときは、私自身、気がつきませんでしたし、返事なんかもまず書いたことがなかったのですが、今思えば、当時の父は、母が亡き後、家族の絆をなんとか繋ぎとめようと、一生懸命やってくれていたのだと思います。

そこまでしてくれていた父に対し、私は勝手にわだかまりを持ってしまっていました。一番相談をしたかった、本音で言うと、甘えたかった頃に父が遠くなってしまい、思春期に勝手に壁を作ってしまったのは、私の方でした。

当時、父は父で必死だったわけで、ただ、それに気がつけない未熟な私がいて、それでも、私自身、5人の父親になって、また、経営者になってやっと、本当にやっと、父の大変さがわかりました。今は申し訳なさと、それから、感謝の気持ちと、リスペクトとが父に対してはあります。父は、私に対して苦労した話をあえてなのか、ほとんどしません。そんな父の大きさを感じる、今日この頃です。