賢さん通信12号
創業当時、会社はとても貧乏でしたが・・・
こんにちは!株式会社琉球補聴器、代表取締役の森山賢(けん)です。賢さん通信第12号をお送りいたします。どうぞよろしくお願いいたします。
さて、11月12日に琉球補聴器は、創業32周年を迎えることができました。どうもありがとうございます。今回は、創業当時のエピソードをご紹介いたします。
昭和62年11月に琉球補聴器は創業いたしました。当時、私は中学3年生でしたので、当時のことを直接経験したわけではないのですが、創業者である私の父、それから当時を知る先輩社員の方々から伝え聞いてきました。
まず、創業当時のことをご紹介する前に、私が入社1年目に父(当時社長)から思い切り怒られた、鉛筆削りのお話をご紹介いたします。当時、私は32歳か33歳でした。1本の鉛筆を削ろうと、電動(自動)の鉛筆削り機で、ガガガガガガガーっと削っていたところ、父が鬼の形相で「お前!鉛筆は、必要最小限に削れ!」と怒ってきました。続けて、「この電動の鉛筆削り機は、お前が鉛筆を押せば押すほど、永遠に削っていくんだ。鉛筆を尖らす必要はない。少し丸みがある方が書きやすいし、尖らせたらポキッとすぐ折れるんだし、鉛筆1本を、こんな風に金持ちのボンボンみたいに扱うな!」と怒られたのです。30歳を過ぎて鉛筆の削り方で親から怒られるとは思ってもいなかったので、何をそんなに怒っているんだと思ってしまいましたが、後々に知ることになる創業当時のエピソードを聞いて、とても納得ができました。
昭和62年の創業当時、琉球補聴器には10名ほどの社員がいましたが、本当にお金がなく、1円たりとも無駄にできない状況だったようです。
まず、名刺です。名刺を作るお金がなかったので、1枚は作るのですが、そのあとはコピー機に10何枚か並べ、A4用紙にコピーし、それを裁断機で切って使っていたようです。お客様にお渡しする名刺が、ペラペラのコピー用紙というのは、今では考えられませんが、背に腹はかえられなかったようです。
次に、看板です。こちらも看板製作業者さんに依頼するお金は当然無く、自作していたようです。お店の営業が全て終わった夜9時過ぎからの作業。鉄板に自作の型紙を置いて、上からスプレーをかけて製作していたとのこと。また、その完成した看板を取り付けるお金もないので、夜中11時、12時に取り付けていいかどうかもわからないところに自分たちで取り付け、注意されたら取り外そうという形でやっていたようです。(※もちろん、現在はそういったことはしておりません)
さらに、営業車を買うのもとても大変だったようです。まず、金額は20万円以内と決めていたようです。そして、その車を駐車するときは、やや下り坂になっているところに駐車するというルールがありました。これは、万が一、エンジンが掛からなかったとしても、そこから押してエンジンが掛かるようにするためだそうです。
このような貧乏エピソードがいくつもあるのですが、父や先輩社員の皆さんから聞いていて思うのは、会社は(お金がないという意味で)貧しかったけれど、そこで働く皆さんの心は、とても豊かだったということ。上に書いたようなことを、イヤイヤではなくイキイキと、ある意味楽しみながらやっていたようなのです。
今でこそ、琉球補聴器は隔週休2日制で、また、有休も取りやすくなりました。一人ひとりにiPhoneを支給することもでき、また、就業規則も改定され、日本でいちばん大切にしたい会社大賞で受賞したりと、ある意味、ホワイトな会社になりました。ただ、それは、ブラックだ、ホワイトだなどの言葉もない30年前に、一丸となって頑張り、礎を築いてくださった先輩方がいたおかげです。
こういった先人の頑張りは絶対に忘れてはならないと思いますし、忘れた瞬間に大きな壁にぶち当たるのだと思います。33年目も、先人の努力を忘れず、一丸となって頑張って参ります。