賢さん通信1号

ごあいさつ

こんにちは!株式会社琉球補聴器、代表取締役の森山賢(けん)です。今月より「賢(けん)さん通信」を発行させていただくことになりました。この「賢さん通信」は、琉球補聴器のことを少しでも身近に感じていただきたいという想いから、代表の私が日々考えていることや、会社の取り組み、ちょっとした気づきなどを発信させていただくものです。お時間のあるときにでも、お読みいただけると嬉しいです。これから、毎月発行させていただきますので、どうぞよろしくお願いいたします。

森山賢

母、そして、父に対する想い

記念すべき第1号は、東京で一生働くつもりだった私が、14年前に琉球補聴器で働くことになった経緯、また、会社の代表になって3年半が経ったときに受けた、人生が大きく変わったとある研修のことについて書きたいと思います。

まず、私は(ここだけの話)東京で一生働こうと思っていました。琉球補聴器は、一昨年に創業30周年を迎えたのですが、創業者は私の父。実は、そんな父について、私は子供の頃、あまり良く思っていませんでした。父は仕事一筋の人。創業者で家族を養っていくためには、仕方なかったのだと思いますが、遊んでもらった記憶も、授業参観や学芸会、運動会に来てもらった記憶もありません。そのため、母のことは大好きでしたが、父については、遊んでくれないけど、何かしたときだけ叱られてと、子供ながらにあまり良くは思っていませんでした・・・。

そのまま大人になってしまった私。県内に残ったら、父の会社で働くことになると思い、大学は東京の東洋大学へ。そして、就職も都内でしました。教材関係の会社に勤めたのち、都内の補聴器の会社に転職。そのまま一生そこで働こうと思っていたのですが、そこで転機が。実は、最愛の母が闘病の末、亡くなってしまったのです。

当時、私は32歳でした。東京から飛んで帰ったのですが、死に目にも会えず、親孝行ができなかった・・・と、後悔の念にさいなまれました。しばらくして、亡くなってしまった母へ、今からできる親孝行は何かないか?と考え、母がこれまで大切にしてきた人、事、物を自分が大切にしていこうと思いました。そして、あろうことか、そこで一番に思い浮かんでしまったのが、父だったのです。私はそこで沖縄に戻る決意をし、琉球補聴器に一社員として入社試験も受け、転職してきました。

ただ、父に対しての気持ちはそう簡単に変わることはありませんでした。琉球補聴器に来て3年、父から社長をするように言われました。そこで私は、あろうことか、鼻息荒く「これからは自分のやり方に全部変えるんだ!」と、完全にダメ後継者の典型に・・・。3年半後にとある研修を受けるまで、本当にダメダメでした・・・(汗)。

社長になって3年半後、私は、人生を変えることになる合宿研修を受けました。全社員(当時約30人)で、これからの会社の夢を語り合うような研修だったのですが、そこで、会社の夢を叶えるための阻害要因、会社の和を乱しているのが、なんと、代表の自分だと宣告されてしまったのです・・・。長く伸びた天狗の鼻はポキッと折れ、「これはもう、自分が変わる以外に方法はない」と心から思い、父に対する気持ちも、会社に対する気持ちも、社員に対する気持ちも、全て180度変えました・・・。

すると、不思議なもので、全てが好転し始めたのです。父が私に笑顔を見せてくれるようになり、権限もどんどん譲ってくれるようになりました。社員もどんどん協力してくれるようになり、会社の雰囲気もどんどんどんどん良くなっていきました。

そして、昨年、これは本当にまさかだったのですが、「日本でいちばん大切にしたい会社」大賞で、他薦により、審査委員会特別賞を県内で初めて受賞することにまでなったのです(涙)。(※このあたりは、また別の機会に書きたいと思います。)

これからも、謙虚にコツコツ頑張って参ります。どうぞよろしくお願いいたします。